〜「shokkanryudo-cho 食幹龍土町」で食べたいひと皿〜
〜ディスカバリーを彩る水墨画のこと〜
~DISCOVERYではたらく人々 第13回~
〜和のクラフトビールに、和の美味を〜
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〜ディスカバリーと、器のこと〜
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ディスカバリーで働くメンバーの考えやこれまでの道のり、素顔を知るインタビュー、始まりました。
第一回めはやはりトップから、というわけで、代表の佐藤幹(さとう かん)さんに話を聞いてみました。
一見、飄々としてつかみどころのないように見える(すいません…)幹さんのこれまでの道のりとは…?
(インタビュー・恩蔵あゆみ)
料理が好きだから。というか物づくりが好きだったんです。
片親だったから、子供の頃から腹減ったら自分でメシつくるしかないし、遊びも自分で考えるしかなかった。だから「創ること」が好きで。将来は、サラリーマンて考えがなかったから「自分の腕で食べていく」って選択肢で。
その時ちょうど「料理の鉄人」ブームですよ。こんな面白いテレビ番組があるんだ!って思いました。
あの頃はまだ「男が料理するもんじゃない」って時代だったけど、料理の鉄人で「男が料理するって格好いいんだな」ってなって、服部栄養専門学校に行きました。和食を選んだ理由?地味だから(笑) 僕、地味なんですよ。中学剣道だったし高校は弓道でしょ。
僕が異例なんです。
できなかったわけじゃないですよ。ずっと下に人がいなかったんです。けっこう苛酷だったんで、人がすぐ辞める。あといくつかお店を変わると、既存の子がもういるからその下にくっついてまた一からやり直しなんですよ。今の時代はもうその逆で、若くても大抜擢でどんどん料理長とかやれちゃうけど。
いや今はもうどこでも若い人が欲しい。「どんどんチャレンジしてどんどんやりなさい。やらなきゃわからないよね」という感じです。
僕らの時代はもう「気に入られないとダメ」的なところがあって。たまたま上がポンポンと抜けて「じゃあお前にもやらせてやるよ」みたいに言われる。「やらせてやる」ですよ、「やりなさい」じゃなくて(笑)
僕、一年目は包丁すら持ってなかったですからね。で、やっと「そろそろ包丁屋呼ぶか。野菜切る包丁だけ買っていいぞ」と。薄葉っていう、野菜だけ切るやつをね。
お店によっては友達や同期が「俺もうここまでやらせてもらってるよ」とか話していて。僕にはいつそういう光が当たるんだろう…と思いました。給料十何万とかそういう世界だったんで、人生の設計のしようもないという。
でも最初から大きい組織に入れたってのは楽しかったです。小料理屋さんだと、もう「料理をつくる、お客さんもてなす」に没頭するじゃないですか。でも大きい組織だと、海外でお店やってたりとか、組織図があって料理長がいて統括料理長がいて…資材調達部門まであったりする。「俺、何年いたらこういう上のところにいけるのかな」と。
27、8になると「自分でいい加減決めたいな」ってなってくるんですよ。すごくお世話になっていて有り難いんだけど、どこまでこの縁で仁義を通し続けなきゃいけないんだろうって悩みました。いつになったら認められるんだろうってのがキツくて。結局その時に身体壊して入院ですよ。帯状疱疹になっちゃった。それで病院で「あ、もう自分の好きなことをしよう」と。
そしていろんな人脈をたどってたどり着いたのが、恵比寿の一軒家の割烹的なお店だったんです。
それまでは株式会社サイドで大きなところにいたけど、はじめて小回りの効く、というか自分で何でもしなきゃいけないようなところに入って。
そしたら自分がこれまでに持ってたものが全部出せたんです。オーナーから全部求められて。「ランチの集客が悪くて」と言われて「じゃこうすればいいんじゃないですか?」って自分でプレゼンして数値つくってパッパッと見せたら「あ、じゃあやってみて」って言われて。それで見事に売り上げもついてきた。「あ、やればそこそこ俺もできるんだな」と。
これまでの下積みが活きてるのかなと思いましたね。ずっとじわじわときて、一気にバコンと突き抜けたというか、花開いたんです。そして料理長になって、何でもかんでもやらせてもらえるようになりました。
でも料理長になったら「この上に何かあるのかな…」とまたモヤモヤしたんですよ。早いよね(笑)
はい。「六本木のこの店をやってほしい。君の好きな人集めてチーム作って、好きなようにやつていいよ」と言ってもらえて。
ここが分かれ目だとは思っていました。恵比寿の店のオーナーの下で料理長やって、この先どうしようっていう段階でしたから。だけどそこでは一年ちょっとしかやってないにも関わらず自分が唯一、色々なポジションややり方をやらせてもらったところだから、出ていくのはだから結構つらかったですよ。
そうそう。さらに次行ったからってうまくいくか分からない。
だけどとにかくやってみたかったんです。その会員制の居酒屋は、規模が大きかったんです。ハコが。そこに惹かれた。だから自分の目の行き届くサイズというよりも「デカバコが好きなんだな」と気づきました。
…気づいてたんでしょうね。人にまかせられちゃう人間なんだなと。
すべて自分の目の届く範囲で、全部自分でやってスペシャルな料理出せる人っているんですよね。いわゆるスペシャリスト。でも僕は違うなと。たぶん団体戦のほうが得意なんだろうなと。
「ぜんぶ自分で創造したい」って思っちゃったんです。
プロダクトが決まってるというか、色んなことはやれるけど、プロダクトのフレームの中なんですよね。やっぱり「雇われている」わけで。でももう、そのフレームの大きさや形まで「自分で考えたい!」と思っちゃった。
それと、周囲の人からものすごく背中を押してもらいました。「会社なんて誰でもつくれるでしょ」と。お金もないけど…?と言ったら「出資してもらえばいいじゃん」と言われ、おお、そうなんだ!と(笑)
助けてもらえる人が逆に増えたんですよ。いろんな人の縁を切ってしまって、自分の人脈が狭くなってきたと同時に新しい出会いがあった。お店のお客さまであったり、身内のつてから知り合ったITベンチャーの人であったり。そういう人たちの考えは新鮮でびっくりしました。「え、起業ってそんな簡単にしちゃっていいの?」って。
でもよく考えたら「社長ってなりたい人がなるしかないんだな」って。部長とか他の役職って他人から指名されて、やるもの。でも社長だけは自己責任。なりたかったらなれる。「ああ、これだ」と。
もともと会社形態には興味があったんです。でも「レストランが稼いでそこに人がいて、そこの会計を管理するために会社がある」と思ってたのが、どうやらそうじゃないなと。
現場からきた人間からしてみたら逆説で、「いい環境・いい将来をつくってくれる会社が、美味しいレストランをプロデュースしてる」って逆のポジショニングでやってったほうが、将来性も大きくなるんじゃないかなと思ったんです。
こうして2007年 月、株式会社ディスカバリーを設立。翌2008年に渋谷に「食幹」をオープンした幹さん。
さまざまな組織やお店を経験して、「自分がやりたいこと・やりたくないこと」「自分が向いていること・いないこと」をひとつずつ刻んで行ったというのがよく分かります。
やってみなきゃ分からないことはたくさんある。しがらみに縛られることなく「とにかく、始めてみよう」、これがここまで来れた秘訣なのかもしれません。
さて次回は「佐藤幹インタビュー後篇」をお届けします。組織をつくったその後のこと、ディスカバリーについて、などなど。