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~DISCOVERYではたらく人々 第13回~
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第六回は、ディスカバリーのスタート地点・食幹渋谷店の金子将大が登場です。32歳という若さながら、その経験はかなり多彩。というか異色…!渋谷店では「英語担当」でもある彼の怒涛の過去と、未来をどうぞ。
(インタビュー・恩蔵あゆみ)
現在、渋谷店の料理長をしています。料理長になってちょうど1年ですね。
スタートは料理の専門学校。卒業後に懐石料理(なだ万)に。だから幹さん(社長)は先輩なんです。
なだ万では横浜や名古屋で計5年間。その後、海外に行ってみたくてオーストラリアのシドニーに行き和食レストランで働きました。お金がなかったんで語学学校は2ヶ月くらいだけ行って、あとはずっと働いてました。
なだ万で外国のお客さんがいらした時、何も喋れないのがくやしかったんです。その時から少しずつ海外に興味が出てきました。「5年以内に板まで行けたらいったん外に出よう」と決めていてそのために貯金もしてたんで、じゃあ行くかと。英語も苦手でしたけどあまり何も考えず「とにかく行くしかない」と。
半々ですね。外の世界が見たい。英語もついでに習いたい。現地に行けば喋らなくちゃいけないだろうという安易な考えで行きました。全然喋れない状態で行ったのでかなり苦労しましたね。でも日本食レストランで日本人と働いてたのであまり上達はせず…。
1年してワーキングホリデービザが切れて帰国後、「30歳くらいまでは色々行こう」と思って、そのまま九州に行きました。なだ万時代の先輩が九州の人が多くて、その縁で。和食店を経験した後、ワーキングホリデー協会の方と親しくさせて頂いたこともあり、協会の福岡オフィスにある「マンリー」というカフェで、料理長的なことをやらせてもらいました。
そうですね。オーストラリアに行ったのが25歳の時なんで、それからはかなりアクティブに動いてます。
出た時からですね。5年でやりたいところまでやれたらっていう最初の目標があって、その先は特に考えてなかったんですけど、オーストラリア行ってからは「30歳までは色々見よう」と。実は専門学校の頃から「東京で働きたい」というのがあって。「いつか東京のカウンターのお店で」というのはずっと頭にありました。
思わなかったですね。専門学校の先生に「これは修業だと思え」って薦められて、5年は我慢しようと決めてた。区切りというか、そこしか知らないで30歳になって外に出るのもアレかなと思ったので。その後東京の和食屋さんで和食を勉強したら、それが自分の人生につながるんじゃないかなというプランでしたね。
けっこう早い方かもしれませんね…。
なだ万で当時いちばん厳しかったのはたぶん名古屋店だったんですけど、僕は「いかにやられないように仕事をするか」っていうのを考えてやってました(笑)夜遅くまで残って朝早く来て、っていうのを当たり前のようにやってましたし、修業らしい修業はしましたね。
僕、負けず嫌いというか…。当時、同期が10人名古屋店に入ったんですけど僕以外は1人残してみんな辞めちゃってて。彼と一緒にやりつつライバル視しながら。怒られないようにというよりは「仕事ガッツリやれば絶対いじられないだろう」と。自分で言うのも何ですが器用タイプだった…みたいです(笑)だから怒られたりした記憶がほとんどない。周りは結構ボコボコやられたみたいですけど。
料理長、木刀持ってましたけどね(笑)昔は料理人=ワルいヤツ。ヤンキー上がり、不良が入る道で。そういうカテゴリーなんでそういう育て方なんですよね。体育会系というか。
そんな中でうまくやりましたね(笑)飲み会では盛り上げ役。休日の前は朝食の人が来る時間くらいまで1人で仕事してましたね。まあそこまでやっていれば絶対言われないだろうっていう作戦。
カナダです。で、この時に英語をちゃんとやりたいなって思った。だから語学学校も5ヶ月くらい行きました。その時はローカルのシーフードレストランで200席くらいあるところで働きました。
すし場とライン場っていうのがあって。日本人なんで「すし場行くか?」って言われたんですけど「ラインやらせてくれ」って言って。あまり喋れなかったけど、カナダ人とずっと一緒にやってましたね。それでもまだまだですけど、英語は何となく通じるようになりました。カナダもワーホリのビザが切れるまで1年いました。
30歳になるんでそろそろちゃんとしなきゃと思って、もう1回和食を勉強しつつカウンターで…ということで探しました。それまでは食幹も佐藤幹という人のことも全然知りませんでした。でもネットで見た時、カウンターの雰囲気もよかったし、コンセプトがまさに僕が将来やるならこんなことという感じだったので、面接受けようと。
ちょうどその時、先輩のお店からもお声がかかっていたので、あと1日採用の電話がなかったらそっちに行くとこでしたね。結構お金もやばかったので(笑)11月12日、自分の誕生日から入社しました。この時がちょうど30歳。計画通りです。
(食幹に入った)最初の印象は「すごいな…」です。カウンターが広いので、とにかく緊張しました。人前が苦手というか接客をやらない職種だったし。
最初の頃は食幹の仕事と料理をおぼえることで手一杯だったので、お客さんとはほとんど喋ってないですね。料理長が話してる脇で器あいてたら下げたりとかしつつ、料理長の接客を参考にしつつ…という感じ。
そこから2〜3ヶ月くらいですかね。
その頃はお客さんも40〜50歳の方が多かったので、自分みたいな若いヤツが話しかけてもいいのかな…と思ってました。「こんな若いヤツに何が分かるんだ」みたいな。共通点がないと思いながらも話そうとしましたけどうまくいきませんでしたね。最初はドリンクや料理の説明から。そこから、土地の話が出たら自分の経験とつなげるとか。それなりの方々がご来店されてるので、政治経済の話やお金の話にはとても入れないですからね(笑)
単純に「面白いな」と思いました。ミックスというか創作というか、でも和食の基本はきちんとやっている。おひたしとかも、浸し地に仮浸け、本浸けして。基本的なことって大事だと思うんです。そういうことはやりつつ料理を崩しているから、それが面白くて。
僕もカナダでシーフードレストランやってたんで、そういう部分もいつか(和食に)混ぜたいなと思っていたので、自分のやりたいことに近かった。
副料理長になったのは年が明けてからでしたね。ちょうど副料理長がいなかったんで「やらないか」と。入社前からそういうチャンスあったら絶対やろうと思ってました。もういい年なので役職持ってみたかったので「あ、チャンスだな」と。具体的には、料理長に代わって現場の料理をみたりお客さんをみたり、食材の発注や人の管理とかもやりました。
変わりましたね。料理長の当たりも変わりましたし、責任がある立場はかなり大変だなと思いました。料理長は厳しかったです。だいぶしごかれました(笑)
あとは、みんな僕より先にこの店にいた人たちだったんで、ひけをとらないようにと。自分の仕事をしてないと人には怒れない。誰かが妥協してたら叱らなきゃいけない立場なので、自分の仕事をしっかりしなきゃっていう意識はかなりありましたね。
その後、その年の10月に料理長になりました。
副から料理長になるギャップはそんなになかったです。
「僕は違うやり方で教えていこう」と思ってました。ガンガン注意したら若い子は萎縮するし、ミスが連鎖してミスを呼ぶんです。だから怖くするのはあまり意味がない。辞めちゃったり、あまり伸びなかったりするし。人によっては怒られて伸びるタイプもいるんです。でもうちに来た人たちはすでに厳しい料理屋を経験した人が多いので、またそれをやる必要は別にないのかなと。
でも最近になって言うことはちゃんと言わないととか、やるにつれて課題は出てきましたけど(笑)
今までと一緒で、チームという感じです。もちろんできる子・できない子っていますけど、できない子にも仕事があるわけで、その子がいなくなったら代わりに誰かがやらなきゃいけない。だったらその子が辞めるような環境にする必要はない。だからみんながやりやすいようにというのが一番ですね。当時の料理長によく「厳しくしないと自分が上に立ったら苦労するぞ」って言われたんですけど、まあそこに関しては案の定苦労しました、はい(笑)
それでも率先して自分がやった方が下がついてくるかなと僕は思うんですよ。偉いから見てるだけとかは好きじゃないので「一緒にやる」って感覚ですね。
難しいです。今もまだ探り探りです(笑)
料理長になって悩むことはいっぱいありますね。失敗は…小さいことならいっぱいあります。料理長あるあるでいうと「この前言ったことと今回言ったことが違う」って言われちゃうとか。色んなことを考えてるとすっ飛んじゃうんですよ。だから料理長になってからはスケジュール帳を持つようになりましたね。「忘れちゃうから書こう!」と(笑)
メニューはメニュー用のノートがあります。季節ごとに変わるメニューを書いておいて、来年になったら参考にする。パソコンでデータ見れば分かるんですが、やはり書いておきたいですね。なだ万時代も仕事終わりにファミレスに行って書いてました。1回言ったことをまた聞いたらすごい怒られるので…(笑)
いまの若い子たちはそういう時代を知らないんで、それを基準にして言ったところで分からないんですよ。今は今のやり方でいいと思います。昔の厳しいやり方が正しかったとも思わない。修業時代はいっぱい人辞めてましたもん。例えば殴った後にすごい仕事できるようになるかっていうと、結局変わらないですから…。
パソコンもインターネットもあるし、今は昔より仕事効率がいい時代。昔は先輩の後ろ姿みて「食材百科」見て食材探して…とかやってたけど、今はネットですぐ分かるし、それなら効率よく仕事してもらったほうがいい。休日は休日、休憩は休憩。そういうメリハリがないと。
仕事を生き甲斐にしてる人と、お金を稼ぐ手段にしてる人の差もあります。僕は料理をやるためにここにいるけど、若い子たちは「お金を稼ぐツール」としての料理人かもしれない。そこは責められない。だからあまりこちらの考えややり方を押し売りするのは好きじゃないです。
自分の中での課題が増えました。料理のこともそうですし、人のポジション、やり方…。日々考えてます。副と料理長とで考え方の違いもありますし、自分が料理長としてどういうふうにした方がよかったかとか、逆にあまり手を出さないほうがよかったかとか。
渋谷店は10年の歴史があるから、先輩たちが築いてきたものを壊さないようにというのと、新しい風を入れたいという思いが両方あります。歴史に対するプレッシャーは日々ありますね(笑)
そういえば先日、久しぶりにいらした常連の方に「だいぶ料理長の色が出てきましたね」って言われて。自分では全然分からないんですけど、それはうれしいですね。それが何なのかは分からないですけど。
やはり英語は本当に役に立ってます。
僕自身もそうでしたけど、海外に行ってメニュー見てもやっぱり分からないんです。料理の想像がつかない。そういうところに積極的に話しかけに行って、日本のスタイルはこうですよとか、うちはこうですよとか、これ一度食べてみてとか、積極的に接客できるので。外国の方がメニュー見て悩んでそうだったらすぐ行っちゃいます。「何かありますか?」って。それで二日連続で来てくれた方もいました。
社長の考え方ですね。切磋琢磨しつつも仲良くという環境。「みんながハッピーに」って幹さんよく言うんですけど、僕もそれが一番だと思います。「楽しく働く」って難しくて、仕事だから厳しくなきゃいけないこともあるけど、店が終わったら仲がいいとか、飲みに行っても気を使わないとか、そういうスタンスはいいと思います。仕事はもちろんきちんとやってますけど、渋谷店の飲み会とかほんと仲いいんで。「つぎカラオケ行こうぜー!」みたいな(笑)
だから各店舗で締めるところは締めないと。許容されてる部分が大きいからこそしっかりやるというメリハリは必要ですね。
叱らなきゃいけない子がいたら「何故そうなのか」「何のために働いているのか」「何がしたいのか」をちゃんと聞いてから「こうしたほうがいいんじゃないか」と言いますね。一方的に「こうやれ」って言うと人間はあまりやらない。…料理長になって人の上に立ってから、初めてこういうことを考えるようになりましたね。
僕自身はもっと成長したいし、幹さんが色んなことやりたいと言ってるので、それについていきたいですね。オリンピックもあるし、特に飲食業界はチャンスだと思うんです。
それと、会社にいる以上は料理長より上に行きたい。まずは「いいと」みたいに自分発信、自分プロデュースの何かをやりたいです。色んなところを見て参考にしつつ、僕も海外を経験したのでその雰囲気を出したりとか。いま渋谷店でも料理に少しそういう要素を入れてるんですよ。里芋トリュフだったり、変わったテイストを入れつつあります。
自分発信の何かは35歳までにやりたいですね。荻さん(「いいと」ディレクター荻根沢)が38だから、僕は35でやったらもっといいかなと(笑)幹さんが40歳で荻さんが38歳。それよりもっと早い段階で何かをしたいという気持ちは常にありますね。
海外出店についてはもう言ってます。「食幹が海外に行けば絶対に流行りますから。その時は僕行きますよ」と。日本料理を日本でやるより海外でやった方が全然いけるんですよ。それは見てきた実感ですね。
若い人は、とりあえず今やっていることをがむしゃらにやる。そうすれば色んなものはついてくる。例えば基本的な包丁の技術など、細かいことを学ぶのなら籠って集中してやる方がいい。中途半端に1〜2年やって辞めちゃうとまた新しい場所でイチからになるんで、もったいない。ある程度経験を経てからなら、こういうカウンターの店で接客しつつ料理を、というのもいいですけどね。
僕は3年5年10年スパンがいいと思うんです。3年やって何かなければ5年やる。5年でどうにかなったら転職でもいいし、もっとやりたいと思ったら10年やるとか。目標を決めて区切るんです。
はい、そうなんです。
区切りといえば、いま10年貯金をしようと思っていて。10年用貯金とかフリーの貯金とか口座を3個くらい分けていて、それはほんとおすすめです(笑)でも幹さんに言うと「稼げばいいじゃん」って…社長の発言ですよね(笑)僕は一般ピープルなんでしっかり貯めます。
「○歳までに」「○年経ったら」「計画通り」…彼の口から何度も出た言葉。なんと堅実。でもいきなり海外に単身飛び出すアクティブさ。そして「上の人たちより早い年齢で何かをかたちにしたい」という負けず嫌いぶり。器用に見せておいて、裏で地道な努力をしているところ。ベンチャー企業の経営者の気質だなあ…と思いながら話を聞いていました。彼の野望、どんどん実現しそうで楽しみです。